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休職してからの初の遠出を目論んでいたがキャンセルした。

登山仲間が気分転換にと登山に誘ってくれ、私自身の日程にあわせてくれていた。せっかく大移動するならその移動先にいる友人や兄弟に会おう、と思っていた。いつもの私ならそうしていたし、どの人も会うのが楽しみな人たちだ。しかしどうしても気力がわかなかった。かろうじて日程の一部のホテルは予約したものの、いつに誰と会うのか、その間はどうやって過ごすのか、考えることも相手と調整することも億劫だった。

最近の自身を振り返ってみた。約束をするのが気持ち的にしんどく、約束はしてみたものの当日の朝から体がだるく動かないとか、いつもなら待ち合わせ時間前に到着するのに気づけば少し遅刻しているとか、まだまだ本調子ではないことに気づいた。山の朝は早い。天気で臨機応変に行先や行程を変更する。無心になれて自然に囲まれる山登りで何かが変わるかもしれないと思う一方、そんな登山に今の私はまだ早い気がした。

昨日は病院巡りの日であった。病院と病院の間のランチ時間。せっかくなので平日の今しかできない楽しみ方をしたい、と思いつつネット検索したりぶらぶらしていると、百貨店でパン屋が集合している一角を発見。最近食べたいと思っていたクロワッサンやマラサダがある。カレーパンもザクザクしてそうでおいしそう。ということでこれらを購入し、外にあったベンチで持ってきていた紅茶とともにいただいた。おいしかった。しあわせを感じた。旅行に行かなくてもこういうことや公園で幸せを感じられる。ささやかなしあわせを積み重ねることが最高にしあわせなのかもしれない。そういうことをよく思う今日この頃。

一方、病院では体に少し異常があることが告げられた。経過観察程度の症状であるし、深刻には受け止めていなかったが、ネットで検索すると重病の可能性もある症状とのことであった。

そして昨日今日で立て続けに3人の不幸のお知らせを聞いた。このお三方には会ったことはないが、話には出ることがあったため身近には感じている方々である。昨年後半から身近な人の不幸が続いた。自身がそういう年代になってきたのだと思う一方、なぜあの人がと衝撃を受けてその意味を考えることもあった。でも死に意味などない。死んだという事象があるだけである。生きている人間が勝手に意味を見出して自分を納得させているだけである。

しかし身近な人の死は自分の人生観に影響を与える。人の死からその人の生きざまを思い返したとき、自分の生き方がこれでいいのかを問うことになる。特に体調が今ひとつな時は考える深さが違う。ひとはいつ死ぬかわからない。お金の心配をしてこのまままたあの愛すべき会社で残業三昧の日々を送ることが正解なのか。またこころが揺らぐ。

それほど深刻には感じていないがもがいているのは確かである。いつも通り公園を散歩していたら緑がより美しくなっていることに気がついた。そしてホノルルマラソンで感じた高揚感と開放感を思い出した。次回からは少し楽しい未来を想像してみようと思う。

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